わんわん凧について
徳島県鳴門地域における撫養地方は、大凧揚げが名物で凧の名前を「わんわん凧」という。
わんわん凧は、撫養地方にある各地域の凧の名前であり、もともと岡崎地区の凧の名前であった。
代表するものに、大津町大代地区の「菊一」・大津町矢倉地区「水仙」・撫養町岡崎地区「わんわん」・撫養町北浜地区「笹」など100種類を超える凧があった。
この岡崎地区のわんわん凧が撫養の大凧の代名詞になっている。
大凧揚げは、江戸時代、元禄5年(1692年)岡崎地区にある蓮花寺本堂の再建上棟の祝いに、棟梁の又右衛門が余興として宇多紙50枚張りの丸凧を作って凧揚げをし、喝采を博したのが起源とされている。
「わんわん」の名称については、このお祝いの時に鏡餅を丹塗りの椀に盛って、あまねく檀那に振る舞ったがこの椀を愛称で重ね呼びしたのが起こりとされる。
毎年5月から7月にかけて強い南東風が吹くと、里浦地区の広戸(里浦海岸)で大凧揚げが行われるようになった。
凧揚げの最盛期である昭和9年~昭和11年(1934年~1936年)には、数百もの凧が乱舞した。
撫養地方では、会社をはじめ郵便局まで仕事を休み町全体が凧揚げに繰り出すほど凧揚げに楽しんだ。
ある凧の製作費用は、当時のお金で18円かかったといわれ、ある家庭では寄付に1円求められたといわれている。(成人男子の一日の給料1円50銭・うどん一杯7銭)
わんわん凧番付表
鳴門大凧の最盛期、昭和9年の「阿波名物凧合一覧」。江戸時代からこのような、相撲の番付表になぞらえた凧番付が作られてきた。 一覧には東西の両横綱「わんわん」「菊一」を筆頭に鳴門地域の村や事業所、個人持ちなど様々な凧が描かれている。
凧の名前 | 地名 | 重量 | 大きさ |
---|---|---|---|
わんわん | 岡崎 | 500貫 | 十間 |
菊一 | 大代 | 450貫 | 九間半 |
水仙 | 矢倉 | 350貫 | 七間半 |
ささ | 北浜 | 350貫 | 七間半 |
丸大 | 黒崎 | 300貫 | 七間 |
輪違 | 大代 | 300貫 | 七間 |
くぎぬき | 吉永 | 300貫 | 七間 |
きくわん | 立岩 | 300貫 | 七間 |
くよう | 段関 | 300貫 | 七間 |
菊巴 | 木津 | 350貫 | 六間半 |
桜大 | 林崎 | 300貫 | 六間半 |
大くつわ | 桑島 | 300貫 | 六間半 |
貫巴 | 木津 | 280貫 | 六間 |
八重桜 | 備前島 | 280貫 | 六間 |
陣幕 | 林崎 | 270貫 | 五間半 |
下り藤 | 大代戎 | 270貫 | 五間半 |
三銀杏 | 木津野 | 270貫 | 五間半 |
凧の名前 | 地名 | 重量 | 大きさ |
---|---|---|---|
流菊 | 南浜 | 260貫 | 五間半 |
丸林 | 姫田 | 250貫 | 五間 |
雪中 | 中江 | 240貫 | 五間 |
鼓 | 西の須 | 230貫 | 五間 |
梅鉢 | 軒端 | 180貫 | 四間半 |
いかり | 三ツ石 | 170貫 | 四間 |
ほかけ | 才田 | 170貫 | 四間 |
小わん | 木津野 | 160貫 | 四間 |
輪違本 | 高島 | 160貫 | 四間 |
桜巴 | 向喜来 | 160貫 | 四間 |
蔭桜 | 長岸 | 160貫 | 四間 |
陣太鼓 | 才田 | 150貫 | ニ間半 |
月星 | 土佐泊 | 150貫 | ニ間半 |
日の出 | 喜来 | 150貫 | 二間半 |
雁がね | 里浦 | 80貫 | 二間半 |
貫一 | 南浜 | 80貫 | 二間半 |
ぼたん | 丸池 | 60貫 | 二間 |
一貫・約3.75キロ 一間…約190cm(当時の旧間は、6尺3寸)
わんわん凧の歴史
鳴門大凧の最盛期、昭和9~11年には東南の季節風が吹くと人々は里浦の「広戸の浜」に集まり大凧揚げに興じた。
戦後、衰退した鳴門大凧を復興しようと、昭和40年代には愛好家が凧合わせを再開したが、会場となる砂浜の減少や娯楽の多様化の中、昔日のような隆盛は取り戻せなかった。
鳴門の地場産品